石井十次ゆかりの地「阿知」の土地柄

 「阿知あち」(明治22年まで上阿知村。行政区分の変更で、大宮村、西大寺市を経て、現在は岡山市東区上阿知)は、石井十次じゅうじが孤児養育に人生を捧げる契機となった出会いの場所として知られている。私もそこから東へ1キロの弘法寺こうぼうじである仏像と出会い、それ以来30余年この地に通っているので、阿知とその周辺の土地柄を探ってみたい。
 明治15年4月から岡山県医学校(8月から甲種医学校、現在の岡山大学医学部)で学んでいた十次は、同20年春、邑久郡おくぐん上阿知村に開設された診療所に居住して診療に当たることになった。これは、阿知に近い神崎かんざきで産科医・漢学者として活躍していた太田杏三の差配によるもので、十次の日記を繰ると、3月3日に化学試験の成績不振で進路に悩み、同月28日に「太田老先生」とともに「上阿知村」に行ったとある。そして4月20日、「本日、備後の遍土へんど寡婦、其の二子を伴い隣家大師堂にとまりせる者にあひ、神意を伝へたり」(ふりがなと読点を付加)と書く。
 「遍土」は遍路へんろと同じで、巡り歩く行為も巡り歩く人も指す。お大師様、すなわち弘法大師空海ゆかりの四国八十八箇所霊場巡礼の本来の目的は信仰で、観光を伴うことも多いが、かつてのお遍路さんの中には「乞食こつじき遍路」と呼ばれた人や病者もいた。四国の霊場では歩行困難な遍路を運んだ箱車はこぐるまが今も大切に保管されている。
 この一家の場合も備後(広島県東部)での生活苦から遍路に出て、途中で父親が死去、子供二人は兄妹だった。一行を不憫に思った十次は8歳の兄の養育を決断して母親に伝え、自らの決意を「神意」と日記に書き留めたのである。時に十次は22歳、3年前に岡山基督キリスト教会で受洗しており、隣人愛を重視するキリスト教徒として不幸な母子との遭遇を天命と受け止めたのであろう。7月13日の日記には「上阿知に孤児貧児教育院を設けんことを決心したり」と書く。周知の通り、実際に孤児院を開いたのは岡山市内だったが、阿知での出会いを契機に医者の道を捨て孤児救済事業に向かったのである。
 では、なぜ遍路の母子は阿知の大師堂に泊まっていたのであろう。
 霊場巡りは、花山法皇(968~1008)が始めたと語られるが実際には平安後期に成立した西国三十三所観音霊場が最古で、それを模して坂東ばんどう(関東)三十三所が鎌倉時代に、秩父三十三所が室町時代に形成された。四国の八十八箇所霊場も室町末期には成立したと見られている。さらに、これらの霊場を巡礼したくても叶わない人々のためにおびただしい数の大小様々な新霊場が全国各地に作られ、それらは「移し(写し)」と呼ばれた。
 四国八十八箇所の「移し」で有名なのは貞享三年(1686)に設定された小豆島八十八箇所だが、阿知が属する邑久郡にも多くの大師堂があり、幕末には南巡りと北巡り2系統の邑久八十八箇所が整備された(邑久町郷土史クラブ『邑久郡大師霊場 南巡り 北巡り 八十八ヵ所順拝の探訪』昭和58年、辻野喬雄『郷土史発掘・新史料から見なおす岡山市東区山南地域の歴史』令和5年)。周辺まで含めれば、奈良時代の名僧報恩大師(?~795)信仰でつながる備前四十八ヶ寺や、いくつかの三十三所観音霊場が組織されていた。また、阿知の西を流れる吉井川河口の児島湾干拓地とその付近にもそれぞれ八十八箇所霊場があり、江戸後期の霊場案内図の版木や霊場案内記などが残っている。
 この地域の歴史を遡ると、吉井川が形成した肥沃な沖積平野では奈良時代から皇族・貴族や有力寺院による開墾が盛んで、後白河上皇から後鳥羽天皇に伝領された豊原荘とよはらのしょうをはじめ広大な荘園が広がっていた。吉井川は高瀬舟たかせぶねによる水運も発達し豊かだったので、備前は都人みやこびとが一目置く国で、平家一門が知行した時期もあった。源平の争乱後には、灰燼かいじんした東大寺の復興に尽力した俊乗房重源しゅんじょうぼうちょうげんが「東大寺造営料国」とすることを認められ、そこから得た収益で東大寺を再建した。また、大仏殿の屋根を葺く瓦は吉井川上流の万富まんとみで焼き、奈良の木津きづまで船で運んだ。その万富の下流には、一遍上人の生涯を描いた「一遍聖絵いっぺんひじりえ」の市場光景で知られ、備前刀や備前焼が取引された福岡市ふくおかのいちがあり、川と交差する山陽道の要衝だった。
 阿知から東に目を向ければ、古代より良港として名を馳せた牛窓が近く、母子が泊まった大師堂の前の道は牛窓と岡山城下を結ぶ幹線道路「牛窓往来」である。海路で牛窓に立ち寄った著名人は西行法師・平清盛・足利義満など枚挙にいとま無く、室町後期には朝鮮・中国との交易基地、西廻航路にしまわりこうろ開発後は北前船きたまえぶねの寄港地として繁栄、さらに、外交使節団「朝鮮通信使」が室町時代に3回、安土桃山時代に2回、江戸時代に12回寄港した。享保四年(1719)を例にあげると、一行は479人で、それに対馬守つしまのかみ一行が随行、岡山藩は家老の指揮の下、藩士など505人、料理・髪結などの民間人252人、加子(水夫)3729人を動員した。接待は往路ばかりか復路にも行われ、規制にもかかわらず多数の見物人が押しかけたことが記録されており、牛窓往来の往時の賑わいは想像に難くない。   
 このように備前、特にその南部は、奈良や京都や江戸、あるいは比叡山(天台宗)や高野山(真言宗)との関係が密接で、人物や物資や情報が行き交う先進地域だったことから、様々な宗教や文化が重層的に蓄積していた。具体的には、余慶寺よけいじと豊原北島神社、備前二宮の安仁神社、弘法寺・西大寺・大賀島寺おおがしまでらなどの大きな社寺から小さな大師堂やほこらまで多種多様な宗教施設が濃密に分布し、霊場も多彩だった。ちなみに明治20年当時、山陽線の鉄道はまだ岡山まで延びておらず、まして赤穂線は構想さえ無かった。一帯の交通事情は江戸時代と大差なく、牛窓往来は依然として大動脈だったので、「乞食遍路」も歩いたと推察できる。
 阿知の大師堂から「大池おおいけ」を越えて牛窓に向かうと、名刹弘法寺の巨大な山門が見えてくる。最後にこの寺の「練供養ねりくよう」に触れたい。私の専門は仏教美術史で、弘法寺の踟供養に関する文献中の小さな写真で珍しい阿弥陀像に関心を持ったのだが、弘法寺は昭和42年に山上伽藍をほぼ焼失、踟供養も断絶していてその像の存否は不明だった。しかし、半信半疑で東京から出向いたところ、釘付けされた御堂にその像はおわし、鎌倉時代の見事な仏像だったのである。それが平成4年で、同9年に踟供養は地元の方々の熱意によって30年ぶりに復活した。
 踟供養のルーツは『往生要集』をまとめた恵心僧都源信えしんそうずげんしん(942~1017)が比叡山で始めた野外仮面宗教劇「迎講むかえこう」で、迎講から派生した行事を今も行う寺院は相当数あるが、阿弥陀来迎を見せる本来の姿を継承するのは弘法寺のみである。その主役となるのが人がかぶって歩くこの阿弥陀像で、面を付けた六観音・地蔵菩薩・天童の計10名とともに、西方極楽浄土から現世に死者を迎えに来て連れ帰る一大スペクタクルを演じるのである。平成25年に龍谷ミュージアムと岡山県立美術館で展覧会「極楽へのいざない ―練り供養をめぐる美術―」開催の折には、京都で出張公演していただいた。
 弘法寺に伝わる史料によると、同寺は「豊原庄」の「御祈祷所ごきとうしょ」「御願寺ごがんじ」だった。鎌倉時代には講師こうじ(講釈の僧)と呪願師じゅがんし(願文がんもんを読む僧)を務める僧を比叡山から、声明や散華の僧13名を近在からしょうじ3日間の本堂供養をした記録や、25名から75名の僧が連署した数通の文書、大火からの復興に際し後醍醐天皇が「御祈祷所」とした綸旨りんじ(天皇の命令書)なども残る。足利尊氏が弟直義との争乱の際、先述の福岡に滞陣中に弘法寺に戦勝祈願した御判御教書ごはんのみぎょうしょ(花押かおうのある公文書)が伝わることからも、この地域の中心寺院だったことは明白である。江戸時代の規模は15の坊と末寺1寺で、歴代藩主の尊崇も篤く、本堂や2棟の社殿をはじめ多くの堂宇の修築再建を支援しており、藩主参詣のための御成門おなりもんも建つ。また、平安後期作の五智如来坐像(大日如来を中心とする5体の像)や快慶作の阿弥陀如来立像、鎌倉時代の阿弥陀二十五菩薩来迎図などの秀作が今に伝わる。踟供養が盛大だったことは、立錐の余地が無いほど参詣人が集う様子を描いた木版画や、警護役人30人の派遣を藩に依頼した書状から推測できる。
 十次が母子と出会った大師堂の一画は保存整備されており、十次と親交のあった徳富蘇峰による顕彰碑や、ここが「岡山孤児院発祥の地」であるとの説明板が建つ。周囲はのどかな田園地帯で、現在は牛窓往来に並行する県道を車が行き交うばかりだが、かつての牛窓往来は、以上のような長い歴史に彩られた街道だったのである。